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第2話 ルミエール特急、六時間の旅

작가: 東雲明
last update 게시일: 2026-08-06 15:29:12

 店を出たとき、発車時刻まで四十分を切っていた。

 制服一式も、実習用の靴も、分厚い教本も、薬草学の器具も、銀色の留め具がついた魔法縮小箱の中に収まっている。両手に抱えられるほどの大きさだが、重さまでは消えないらしく、走るたびに腕へずしりと負担がかかった。

 ルミナス駅へ続く大通りは、旅人と学生であふれていた。

 白い治療服を着た医師たちが足早に行き交い、その間を、浮遊式の荷車が滑るように進んでいく。頭上では細長い飛行車が交差し、建物の壁に映し出された案内表示が、ルミエール特急の発車時刻を刻一刻と減らしていた。

「間に合ってくれ……!」

 縮小箱を抱え直し、俺は人混みを縫うように走った。

 駅へ着いたときには、額から汗が流れていた。

 巨大な半円形の天井の下に、無数の乗り場が並んでいる。列車の発着を知らせる声、車輪の音、別れを惜しむ人々の声が重なり、構内全体が生き物のようにざわめいていた。

 床に埋め込まれた赤い案内線を追うと、ルミエール特急専用の改札へたどり着いた。

 そこには、俺と同じ灰色の制服を着た新入生たちが並んでいる。

 きっちりとネクタイを締めた者もいれば、家族に何度も振り返りながら手を振っている者もいた。胸元に縫いつけられた寮章は獅子、鷹、鹿、蛇とさまざまだ。

 俺は私服姿のまま、列の最後尾へ並んだ。

 前にいた二人組の女子生徒が振り返り、俺の顔を見た。

 一人が大きく目を見開く。

「ねえ、あの人……」

「うそ。動画の人じゃない?」

 押し殺した声のつもりなのだろうが、すぐ後ろにいる俺にははっきり聞こえた。

 俺が顔をそらすと、今度は隣の列にいた男子生徒がこちらをのぞき込んだ。

「あれが医療戦士?」

「ミナって子を助けた人だろ。光るハンカチを使ったっていう」

「まだ入学前なのに?」

 視線が一つ増えるたび、背中に見えない針を刺されているようだった。

 俺はただ、あのとき目の前にいたミナを助けたかっただけだ。

 自分が何をしたのか、今でも全部を理解しているわけではない。

 それなのに、知らない人たちは動画の中の俺を知っている。

「次の方」

 係員に呼ばれ、俺は慌てて合格証を差し出した。

 紙に刻まれた獅子の紋章が金色に光る。

「ハヤト・キサラギさん。獅子寮ですね」

「はい」

 係員は合格証と俺の顔を見比べた。

 その目にも、わずかな驚きが浮かんだ。

「あなたが、あの……」

 またか。

 身構えた俺に、係員は途中で言葉を切った。

「失礼しました。車内では制服を着用してください。発車まで、あと二十五分です」

「ありがとうございます」

 俺は合格証を受け取り、更衣室へ駆け込んだ。

 買ったばかりの制服からは、新しい布の匂いがした。

 灰色の上着に、赤いベスト。白いシャツと赤いネクタイ。寸法は合っているはずなのに、袖を通した瞬間から落ち着かなかった。

 鏡の前に立つ。

 そこに映っていたのは、俺ではない誰かに見えた。

 名門校へ入ることを許され、立派な制服を着こなし、これから医師への道を歩んでいく人間。

 その姿だけを見れば、堂々としている。

 けれど、その中にいる俺は、まだ何も始めていない。

 ネクタイを締めようとして、うまく結び目が整わなかった。左右の長さが合わず、直すほど形が崩れていく。

「時間がない……」

 結局、少し緩んだまま襟元へ押し込み、上着のボタンも一つ掛け違えた。気づいてはいたが、直す余裕はない。

 縮小箱を抱え、俺はそのままホームへ走った。

 ルミエール特急は、白銀の車体に青い光の線を走らせた長い列車だった。

 扉の横には校章が浮かび、乗車する生徒の合格証へ光を当てている。俺が乗り込むと、外の喧騒が急に遠のいた。

 発車を知らせる鐘が鳴る。

 俺は空いているコンパートメントを探し、ようやく一人になれる部屋を見つけた。

 赤いベルベット張りの座席へ腰を下ろした途端、全身から力が抜けた。

 列車が静かに動き始める。

 窓の外でルミナス市の建物が流れ、やがて広い草原が見え始めた。

 六時間の旅だ。

 教本を読めば、基礎だけでもかなり進められる。

 俺は縮小箱から一冊を取り出し、青い表紙を開いた。

 だが、一行目を読み終える前に、通路から声が聞こえてきた。

「あの部屋にいるぞ」

「本当に?」

 扉の小窓に、何人もの顔が現れた。

「ハヤト・キサラギさんですよね?」

 扉が開き、女子生徒が勢いよく身を乗り出してきた。

「え……ああ」

「やっぱり! あの動画、何度も見ました。光が広がった瞬間、鳥肌が立って……!」

 その後ろから、別の生徒も顔を出す。

「入学前から患者を救うなんて、すごいよな」

「医療戦士って、実際にはどんな力なんですか?」

「光のハンカチを見せてもらえませんか?」

「どうやって発動したんですか?」

 質問が次々と飛んでくる。

「いや、俺にもまだ、よくわからなくて……」

「謙遜しなくてもいいのに」

「入学したら、特別授業を受けるんですか?」

「学校から直接呼ばれたって本当?」

「握手してもらっていいですか?」

 返事をする間もなく、手を差し出された。

 断る理由も見つからず、俺は戸惑いながら握り返した。

「ありがとうございます。私、治療術が苦手なんですけど、ハヤトさんを見て頑張ろうって思ったんです」

「俺を見て?」

「はい。普通の人でも、誰かを助けたいって強く願えば、あんな奇跡を起こせるんだって」

 悪意のない言葉だった。

 むしろ、真剣に俺を褒めてくれている。

 それなのに、胸の奥が苦しくなった。

 普通の人。

 確かに俺は、特別な家に生まれたわけでもない。医師の家系でもなければ、幼いころから英才教育を受けてきたわけでもない。

 けれど、知らない相手から自分の人生を一言で決められたような気がした。

「ちょっと、騒ぎすぎじゃない?」

 通路の後ろから、冷めた声が聞こえた。

 長い髪を高い位置で結んだ女子生徒が、腕を組んでこちらを見ている。

「動画ではもっとすごい人に見えたけど、その割には普通だね」

 隣にいる男子生徒が俺の制服へ視線を落とした。

「制服の着方も変だし。上着のボタン、掛け違えてるぞ」

「本当に本人なの?」

「顔は同じじゃない?」

「でも、医療戦士ってもっと威厳があるものだと思ってた」

 コンパートメントの空気が変わった。

 さっきまで俺を囲んでいた生徒たちも、困ったように互いの顔を見る。

「入学前に力を使えたからって、授業でも優秀とは限らないだろ」

「一度だけの偶然かもしれないしな」

「そもそも動画だって、全部映っていたわけじゃないし」

 俺は何も言い返せなかった。

 褒められても困る。

 疑われても、否定できない。

 俺自身が、自分に何が起きたのかわかっていないのだから。

 無意識に、上着の掛け違えたボタンへ手を伸ばした。

 今すぐ直せばいい。

 ネクタイも締め直し、姿勢を正せば、少なくとも見た目だけは名門校の生徒らしくなる。

 だが、指はボタンに触れたまま止まった。

 直したところで、何が変わるのだろう。

 制服を正しく着れば、医療戦士らしく見えるのか。

 見知らぬ人たちが期待する誰かになれるのか。

 俺はボタンから手を離した。

「すみません。少し休みたいので」

 ようやくそれだけ言うと、最初に声をかけてきた女子生徒が申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめんなさい。急に押しかけて」

 生徒たちは一人ずつ通路へ戻っていった。

 扉が閉まる。

 静けさが戻ったはずなのに、耳の奥では、さっきの言葉が何度も繰り返されていた。

 その割には普通だね。

 制服の着方も変だし。

 俺は教本へ目を落とした。

 文字を追っても、意味が頭に入ってこない。

 窓の外の景色が流れるたび、胃の奥がゆっくり揺れた。額に冷たい汗が浮かび、呼吸が浅くなる。

 昼食をほとんど取っていなかったことも、駅まで走ったことも、緊張し続けていたことも、全部が一度に押し寄せてきた。

「六時間、これが続くのか……」

 教本を閉じ、座席へ背中を預けた。

 そのとき、扉が勢いよく開いた。

「お、やっと空いてる部屋を見つけた」

 明るい声とともに、同じ制服を着た青年が現れた。

 左へ流した明るい茶髪。人なつこそうな目。俺より少しだけがっしりした体格で、大きな旅行鞄を片手に持っている。

「ここ、座ってもいいか?」

「ああ。どうぞ」

「助かった。さっきまで通路が人で詰まっててさ。医療戦士が乗ってるとかで、みんな同じ方向へ走っていくんだよ」

 青年は向かいの席へ鞄を押し込んだ。

 そして俺の顔を見た。

 窓の外を見る。

 もう一度、俺を見る。

「……もしかして、医療戦士ってお前?」

「たぶん」

「たぶんって何だよ」

「周りはそう呼んでる。でも、俺自身はよくわからない」

「なるほど」

 青年は深くうなずいた。

「つまり本人にも事情が飲み込めてないのに、先に呼び名だけが走り回ってるわけだ」

「そんな感じだ」

「大変だな。有名人」

「他人事みたいに言うなよ」

「今のところ他人だからな。これから同じ寮なら、他人じゃなくなるかもしれないけど」

 青年は胸元の獅子の紋章を指で示した。

「テオ・アルト。獅子寮の一年」

「ハヤト・キサラギ。俺も獅子寮だ」

「知ってる。さっき通路で、二十人くらいが名前を叫んでた」

「そんなにいたのか……」

「人気者はつらいな」

 テオは悪びれずに笑った。

 その視線が、俺の上着へ落ちる。

「それにしても、すごい着方だな」

「やっぱり変か?」

「ネクタイは逃げかけてるし、上着のボタンは別の穴に引っ越してる。ベストの裾も片方だけ出てるぞ」

「急いでたんだ」

「直さないのか?」

 俺は自分の胸元を見た。

「今は、このままでいい」

「ふうん」

 テオは理由を尋ねなかった。

「まあ、制服なんて授業を受けるわけじゃないしな」

「着るのは俺たちだけどな」

「細かいことを言う医療戦士だ」

「その呼び方、やめてくれ」

「じゃあハヤトで」

 あっさりと言われ、拍子抜けした。

「聞かないのか? 動画のこと」

「気にはなる」

「なら、どうして」

「会ったばかりの相手を質問攻めにしたら、逃げられるだろ。俺は獅子寮で、話せる相手を一人でも多く確保したいんだ」

「正直だな」

「人間関係は最初が大事だからな」

 テオがそう言った直後、扉が再び開いた。

「ここは空いているかしら」

 落ち着いた声とともに、肩までかかる髪を細かく巻いた少女が立っていた。

 灰色の上着に赤いリボン、長めのチェック柄のスカート。胸元には、俺たちと同じ獅子寮の紋章がある。

「空いてるよ。獅子寮なら歓迎する」

 テオが自分の隣を示す。

 少女はすぐには座らず、俺をじっと見た。

「あなた、顔色が悪いわ」

「え?」

「額に汗をかいている。呼吸も浅い」

 俺が返事をするより早く、テオが口を挟んだ。

「制服の着方を指摘されて、心に深い傷を負ったらしい」

「勝手に人の病名を作るな」

「病名ですらないでしょう」

 少女はテオへ冷たい視線を向けた。

「具合が悪そうな人を見て、よくそんなことが言えるわね」

「緊張をほぐそうとしたんだよ」

「本人が余計に疲れた顔をしているけれど」

「俺の冗談は、あとから効いてくる種類なんだ」

「薬草なら使用禁止にされているわね」

「会って十秒で厳しいな」

 二人のやり取りを聞いているうちに、胃が大きく揺れた。

 俺は口元を押さえ、座席へ深く背中を預ける。

 少女の表情が引き締まった。

「景色を見ないで。頭を動かさず、背もたれに預けて」

 声は静かだったが、迷いがなかった。

「吐き気は?」

「少し」

「腹痛は?」

「ない。胃が重い感じがする」

「寒気や熱っぽさは?」

「それもない」

「食事は取った?」

「朝はパンを食べた。昼はほとんど何も」

「列車に乗る前から具合が悪かった?」

「いや。しばらくしてからだ」

 少女は俺の返事を一つずつ聞き、目元や呼吸を確かめていく。

「乗り物酔いの可能性が高いわ。空腹と疲労、緊張も重なっていると思う。ただし、痛みや熱が出たらすぐに言って。別の原因も考えなくてはいけないから」

「君、上級生なのか?」

「今日から一年生よ。あなたたちと同じ」

 少女は鞄から細長い金属製の箱を取り出した。

 蓋を開くと、薄い紙に包まれた乾燥薬草が、種類ごとに整然と並んでいる。

 テオが目を丸くした。

「普通、新入生の鞄からそんなものが出てくるか?」

「必要になると思ったから持ってきたの」

「俺は菓子と着替えしか持ってきてない」

「あなたの鞄の中身を基準に、世間の普通を決めないで」

 少女は乾燥させた葉を少量取り出し、香りを確かめた。

「テオ・アルト。給湯器から、ぬるめのお湯をもらってきて」

「俺、名乗ったっけ?」

「扉の外まで聞こえる声で名乗っていたでしょう」

「聞いてたのか」

「早くして。熱すぎるお湯は駄目よ」

「はいはい。薬草学の先生」

「先生ではないわ」

 そう言いながらも、テオはすぐに立ち上がった。

 扉を開けたところで、通路にいた生徒たちとぶつかりそうになる。

「医療戦士のハヤトさんがいる部屋って、ここ?」

 興奮した声が聞こえた。

「今、具合悪いから後にしてくれ」

「えっ、医療戦士でも具合が悪くなるの?」

「なるだろ。人間なんだから」

「でも、医療戦士なら自分で治せるんじゃないの?」

「そんな便利なものだったら、医者も学校もいらないだろ」

 テオは扉を閉め、通路の声を遮った。

 少女がわずかに眉を上げる。

「意外とまともなことを言うのね」

「今の言葉、もう一度頼む。記念に覚えておきたい」

「早くお湯を取ってきて」

「褒め言葉の有効時間が短すぎる」

 テオが出ていくと、少女は薬草を薄い布で包み始めた。

「エマ・リンデン。私も獅子寮よ」

「ハヤト・キサラギ。助かる」

「まだ助かると決まったわけではないわ。薬草で具合が悪くなったことは?」

「ない」

「苦手な香りは?」

「強い花の匂いは少し」

「薄荷は?」

「大丈夫だと思う」

「思う、ではなくて、今まで口にしたことは?」

「飴ならある」

「そのとき異常はなかった?」

「ああ」

 エマは質問を重ねながら、薬草の量を慎重に調整していた。

 顔を見ただけで、すべてを言い当てるわけではない。

 わからないことを尋ね、返事を聞き、少しずつ可能性を絞っていく。

 その姿を見ていると、胸の奥の緊張が少しだけほどけていった。

 ほどなくして、テオがカップを二つ抱えて戻ってきた。

「ぬるめのお湯と水。ついでに、食堂車で塩味の薄いパンももらってきた」

「気が利くじゃない」

「今の、今日二回目だな」

「何が?」

「俺を認める言葉」

「一回目は、まともなことを言ったのが意外だと言っただけよ」

「それでも褒められたことにしておく」

 エマは受け取った湯の温度を確かめ、薬草を包んだ布を沈めた。

 淡い緑色がゆっくりと広がる。

「ハヤト、少しずつ飲んで。急に全部飲まないでね」

「ああ」

 カップを受け取ると、温かさが冷えていた指へ染み込んだ。

 一口飲む。

 薄荷の涼しい香りが鼻へ抜け、あとからわずかな甘みが広がった。

「飲めそう?」

「大丈夫。思っていたより飲みやすい」

「失礼ね。苦いものしか作れないと思ったの?」

「いや、薬草ってもっと強い味なのかと」

「量と組み合わせ次第よ。何でも多く入れれば効くわけではないの」

 テオが横からカップをのぞき込んだ。

「俺も飲んでみたい」

「あなたは酔っているの?」

「味が気になる」

「必要のないものを面白半分で飲まないで」

「お茶みたいなものだろ?」

「ハヤトの状態に合わせて作ったの。あなたに必要かどうかは別の話よ」

「じゃあ、俺専用の元気が出る薬草湯を作ってくれ」

「必要なのは睡眠と落ち着きね」

「落ち着きは薬草で補えないのか?」

「あなたの場合、相当な量が必要になりそうだわ」

 言い返しながらも、テオは窓の遮光を半分まで下ろしてくれた。

 流れる景色が隠れ、光が柔らかくなる。

 俺の膝に載っていた教本も取り上げ、隣の席へ置いた。

「勉強は元気になってからだ」

「六時間を無駄にしたくなかったんだ」

「入学前の列車で倒れるほうが、よっぽど無駄だろ」

「珍しく正論ね」

「エマは俺を何だと思ってるんだ?」

「まだ判断材料が足りないわ」

「つまり、これから知ってもらえる余地がある」

「どうして良い方向にしか受け取らないのよ」

 二人の会話を聞いているうちに、胃の重さが少しずつ薄れていった。

 額の汗も引き、深く息を吸えるようになる。

「だいぶ楽になった」

 俺がそう言うと、エマの表情がわずかに緩んだ。

「吐き気は?」

「ほとんどない」

「頭のふらつきは?」

「さっきより軽い」

「なら、水を一口だけ飲んで。そのあと、パンを少し食べてみましょう」

 テオが包みを開いた。

「食堂車の人に、医療戦士が具合悪いって言ったら、これをくれた」

「言ったのか?」

「言わないと、食堂が混んでる時間にパンだけ売ってもらえなかったんだよ」

 俺は頭を抱えたくなった。

「また広まるだろ」

「もう十分広まってる」

「そういう問題じゃない」

「でも、今は食べたほうがいいでしょう」

 エマがパンを半分に割った。

「少しずつなら大丈夫そうね。テオの余計な一言が、今回は役に立ったわ」

「俺の行動は長い目で見ると全部役に立つ」

「それは今後、慎重に検証しましょう」

 二人に見守られながら、俺はパンを口に運んだ。

 塩気の薄い生地が、空っぽだった腹へゆっくり落ちていく。

 食べ終わるころには、体の中へ力が戻り始めていた。

「ありがとう。二人が来なかったら、たぶんずっと我慢してた」

「具合が悪いと伝えることも、治療には必要よ」

 エマは薬草箱の蓋を閉じた。

「助ける側になりたい人ほど、自分が助けを求めるのを嫌がることがあるわ。でも、症状を隠されたら、周りは判断できない。医師を目指すなら、自分が患者になったときのことも覚えておいたほうがいいと思う」

 厳しい言葉だったが、不思議と胸には刺さらなかった。

 俺はずっと、誰かを助けられる人間になりたいと思ってきた。

 そのためには、何でも一人でできなければいけないと思っていた。

 けれど今、俺は二人に助けられた。

 その事実は情けなさよりも、温かさを残していた。

 扉の外で、再び足音が止まった。

「ハヤトさん、もう具合は大丈夫ですか?」

 先ほどの女子生徒が、おそるおそる顔を出した。

「さっきは押しかけてしまって、ごめんなさい」

「いや、俺もちゃんと答えられなくて」

「これ、よかったら」

 彼女は小さな紙袋を差し出した。

「食堂車で売っていた飴です。医療戦士が同じ学校にいるって知って、うれしくなってしまって……。私の弟も、あの動画を見ているんです」

「弟さんも?」

「病気で、長く治療を受けています。あの日から毎日、医療戦士なら自分も治してくれるかなって話していて」

 胸の奥が締めつけられた。

 俺はまだ、誰かの病気を治せるような人間ではない。

 動画に映った一度の光だけで、その子の期待に応えられる保証などない。

「弟さんに、伝えてください」

 口を開いたものの、続く言葉が見つからなかった。

 必ず助けるとは言えない。

 簡単に希望を持たせるのも怖い。

「俺はまだ、学校に入る前の学生です。何ができるのかも、わかっていません。でも、これから勉強します。弟さんみたいな人を助けられるようになるために」

 女子生徒はしばらく俺を見つめ、静かにうなずいた。

「伝えます」

 紙袋を受け取ると、彼女はほっとしたように笑って去っていった。

 その直後、離れた場所から別の声が聞こえた。

「期待させるだけなら、誰にでもできるよな」

「制服すらまともに着られないのに、患者を助けるって?」

「入学してから実力がわかるだろ」

 姿は見えなかった。

 だが、その言葉だけが冷たく残った。

 俺はまた、掛け違えたボタンへ手を伸ばした。

 今度こそ直すべきなのだろうか。

 医師を目指すなら。

 期待される人間なら。

 少なくとも、きちんと見える格好をするべきなのかもしれない。

 けれど俺は、指先を離した。

「直さないの?」

 エマが尋ねた。

「今は、このままでいる」

「どうして?」

「わからない。でも、言われたから直すのは違う気がする」

 テオが俺の上着を眺めた。

「俺は、その着方が格好いいとは思わないぞ」

「そこは否定しろよ」

「ただ、直すかどうかを決めるのはハヤトだろ」

 エマも少し考えたあと、短く息をついた。

「授業が始まる前には直したほうがいいと思うわ」

「それはわかってる」

「なら、今は好きにすればいいんじゃないかしら」

「エマまで認めた」

 テオがうれしそうに口を挟む。

「あなたの意見を認めたわけではないわ」

「俺たち、意外と考え方が合うかもしれないな」

「今の会話のどこを聞いていたの?」

 また始まった二人の言い合いに、俺は思わず笑った。

 さっきまで胸を締めつけていた言葉が、少しだけ遠ざかっていく。

 体調が戻ってから、俺たちは三人で教本を開いた。

 エマは自分の鞄から、俺のものより分厚い薬草図鑑を取り出した。紙の間には何十枚もの札が挟まれ、余白には細かな文字で書き込みがある。

「もう読んだのか?」

「三回だけ」

「三回も、だろ」

 俺とテオの声が重なった。

「覚えきれていない部分も多いわ」

「一回も開いてない俺の立場はどうなるんだ」

「今日から開けばいいでしょう」

「その言い方、簡単そうに聞こえるな」

 テオは俺の教本に描かれた人体図をのぞき込んだ。

「この長い骨が腕で、短い骨が指か」

「見ればわかるだろ」

「俺はもっと独自の覚え方を探してるんだ」

「独自にする必要はないわ。正式名称を覚えて」

「最初から難しい名前を全部覚えたら、頭が疲れるだろ」

「医療専門学校へ何をしに来たのよ」

「医者になるため」

「なら覚えなさい」

 テオは唸りながら教本を見つめ、急に人体図の一部を指さした。

「ここ、獅子の横顔に見えないか?」

「見えない」

「ハヤトは?」

「少しだけ」

「仲間がいた」

「ハヤトまで、この人に合わせなくていいのよ」

「でも一度そう見えると、もう獅子にしか見えないな」

「二人とも、教本へ余計な印象を植えつけないで」

 真面目に訂正するエマと、次々に妙な覚え方を作るテオ。

 俺も途中から口を出し、三人で同じ図を囲んだ。

 エマは間違いを見つけるたびに正したが、わからない部分を尋ねると、嫌な顔一つせず説明した。

 テオはすぐ脱線したが、難しい内容を簡単な言葉に置き換えるのがうまかった。

 一人で読んでいたときより、教本の内容が頭へ入ってくる。

「ハヤトは、どうして医師になろうと思ったんだ?」

 テオが尋ねた。

「助けたい人がいるから」

「動画に映っていた子?」

 俺は答えに迷った。

 ミナの顔が浮かぶ。

 あの日、光に包まれた小さな手。

 二年前に姿を消してから、ずっと探し続けていた大切な存在。

「ああ」

 それ以上は言えなかった。

 テオも、深くは聞かなかった。

「じゃあ、助けられるようにならないとな」

「簡単に言うなよ」

「難しいから、この学校に来たんだろ?」

 その言葉に、俺は黙った。

 軽く見えるテオの言葉は、ときどき真っすぐ胸へ入ってくる。

「テオは?」

「俺は、家族に医師が多いんだ」

「家の後を継ぐのか?」

「それを期待されてる。でも、俺自身が何をしたいかは、まだ決まってない」

「決まっていないのに、入学したの?」

 エマが尋ねる。

「決まってないから来た。ここで探せばいいだろ」

「ずいぶん楽観的ね」

「エマは全部決めてるのか?」

「薬草を使った治療法を学びたいわ。今ある薬では助けられない病気に、別の道を作りたい」

 エマは膝の上の薬草図鑑へ目を落とした。

「薬草は、使い方を間違えれば毒になる。でも、正しく使えば、ほかの方法では救えない人を救えることもある。私は、その境目を知りたいの」

 珍しい薬草の挿絵を見る彼女の目は、車内の灯を映して輝いていた。

「エマは入学前から、もう医師みたいだな」

 俺が言うと、エマは顔を上げた。

「まだ何もできないわ。さっきだって、ハヤトの症状が重かったら、車掌を呼ぶしかなかったもの」

「呼ぶ判断ができるなら、それも十分じゃないか?」

「確かに」

 テオがうなずく。

「俺なら、とりあえず窓を開けようとして怒られてた」

「走行中は開かないわよ」

「だから被害は出ない」

「そういう問題ではないでしょう」

 三人で話しているうちに、時間は思っていたより早く過ぎていった。

 外が濃い藍色に染まったころ、車内へ柔らかな鐘の音が響いた。

『まもなく結界通過地点へ入ります。新入生の皆様は、合格証をご用意ください』

 俺たちは窓の遮光を戻した。

 外には深い森が広がっていた。

 行く手には切り立った崖がそびえ、線路はその黒い岩肌へまっすぐ続いている。

「なあ。あれ、止まらないよな?」

 テオが窓へ顔を近づけた。

「結界を通過すると言っていたでしょう」

 エマは落ち着いた声で答えたが、図鑑を抱える腕にはわずかに力が入っている。

 列車は速度を落とさない。

 崖が目前へ迫る。

 俺は座席の端をつかんだ。

 衝突する。

 そう思った瞬間、胸元に入れていた合格証が熱を持った。

 獅子の紋章から金色の光があふれる。

 崖の表面に波紋が広がり、列車は光の中へ滑り込んだ。

 一瞬、すべての音が消えた。

 窓の外が白く染まり、体が宙へ浮いたような感覚に包まれる。

 やがて光がほどけた。

 そこには、別の世界が広がっていた。

 夜空の下、広大な丘を白銀の校舎が埋め尽くしている。

 建物同士を透明な空中通路が結び、丸い屋根の実習棟では青い光が呼吸するように明滅していた。段々に広がる薬草園には色とりどりの灯が浮かび、その向こうには治療棟と、窓明かりのともった学生寮が並んでいる。

 中央にそびえる塔を中心に、巨大な結界が半球状に広がっていた。

「これが、本物のルミエールアカデミー……」

 声に出した途端、胸の奥が熱くなった。

 ここで学ぶ。

 ここで、医師になる。

 ミナを助けられる人間になる。

「六時間かけた甲斐はあったな」

 テオが感嘆の息を漏らした。

「あなた、途中で二時間ほど寝ていたでしょう」

「寝ても景色は逃げない」

「ハヤトの教本を枕にしようとしていたわよね」

「あれは高さを確認しただけだ」

「教本の使い方を最初から間違えているわ」

 列車が駅へ近づく。

 白い屋根のホームには、多くの生徒や教師らしい大人たちが並んでいた。

 俺は縮小箱を持ち、立ち上がった。

 ネクタイは緩んだまま。

 上着のボタンも掛け違えたままだ。

 窓に映る自分は、やはり名門校の新入生らしくは見えなかった。

「本当に、そのまま降りるのか?」

 テオが尋ねる。

「ああ」

「目立つと思うぞ」

「もう十分目立ってる」

「それもそうだな」

 エマは俺の制服を見て、何か言いかけた。

 だが結局、口を閉じた。

 列車の扉が開く。

 冷たく澄んだ夜風が吹き込み、ホームの光がコンパートメントへ流れ込んだ。

「行こうぜ。獅子寮の一年として」

 テオが鞄を肩へ担ぐ。

「まだ寮へも着いていないのに、ずいぶん張り切っているのね」

「最初くらいはな」

「その張り切りが、明日の朝まで続けばいいけれど」

「明日のことは明日考える」

「やっぱり楽観的ね」

 二人のあとに続き、俺もホームへ降りた。

 その瞬間だった。

 周囲の話し声が、急に小さくなった。

 一人、また一人と、生徒たちがこちらを見る。

「あれ……」

「ハヤト・キサラギ?」

「医療戦士が来たぞ」

 ざわめきが波のように広がっていく。

 期待に満ちた目。

 疑うような目。

 俺の制服を見て、笑う者。

 祈るように両手を組む者。

「本当に普通の人なんだ」

「どうして、あんな着方をしてるの?」

「動画の人と同じには見えない」

「でも、あの光は本物だった」

 無数の声に囲まれ、足が止まりそうになった。

 そのとき、中央の塔から白い光が放たれた。

 一度。

 二度。

 まるで何かを探すように、光が校内を巡っていく。

 やがて、その光はホームへ降りてきた。

 生徒たちの頭上を通り過ぎ、俺の胸元で止まる。

 合格証に刻まれた獅子の紋章が、熱を帯びて輝き始めた。

「何だ、これ……」

 俺が合格証を取り出した瞬間、中央の塔から低い鐘の音が鳴り響いた。

 ホームにいた教師たちの表情が変わる。

 黒い長衣をまとった一人の男性が、こちらへ駆けてきた。

「ハヤト・キサラギは、どこだ!」

 周囲の生徒たちが、一斉に俺を見る。

 男性も、その視線を追った。

 俺の掛け違えた上着のボタンと、緩んだネクタイを見て、一瞬だけ言葉を失う。

「君が……ハヤト・キサラギか?」

「はい」

「すぐに中央治療塔へ来なさい」

「今からですか?」

「今からだ」

 男性は、光を放ち続ける俺の合格証を見つめた。

「医療戦士の選定が始まった」

東雲明

ハヤト、ルミエール特急で親友のエマとテオに出会います。ハヤトは医療戦士と周りの生徒から言われ、戸惑ってしまいます。さらに、制服を着崩してしまいます。はたして、次回の医療戦士の選定では無事に選ばれるのでしょうか。少しでもおもしろい、続きが気になると思われましたらブクマ、評価、レビューいただけると泣いて喜びます。

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  • 入学初日に、世界を救う医療戦士に選ばれました〜光のハンカチと3人の治療簿〜   第46話 3人で迎える冬

     十二月半ばの獅子寮は、夜が更けても共有スペースの灯りが消えなかった。窓に映る俺たちの向こうで、ルミナス市の光が白く滲んでいる。紅茶の香りが薄れた机には、開いた教材と、何度も消して書き直したノートが並んでいた。 テオはエマが答えを隠したページを見下ろし、鉛筆の先を止めた。「まず葉の状態を確かめる。それから、保存する場所を選ぶ」 エマが指を退ける。答えを照らし合わせたテオは、小さく息を吐いて丸をつけた。以前なら正解するたび騒いでいたのに、今はすぐ次の問いへ目を移している。「覚えたね。そこ、もう大丈夫」「エマの声つきで頭に入ってる」「試験中まで注意されたくないでしょ」 テオが笑い、机の端へ寄っていた彼女のカップを手元へ戻した。その自然な仕草に俺も口元を緩め、自分の教材に向き直る。最後まで残った付箋は二枚。首席を守りたいという気持ちを、今はこの一問を確かめることに集中させた。 試験期間は、思っていたより早く過ぎた。答案に向かうたび、三人で読み直した箇所が浮かぶ。最後の科目を終えてからも確認用のノートを鞄から出せないまま、俺たちは結果発表の日を迎えた。 学内の掲示画面には、人の輪ができていた。俺はテオとエマが隣にいるのを確かめ、一年の一覧を下から辿った。見慣れた名前を通り過ぎ、最上段で視線が止まる。 ハヤト・キサラギ。学年首席。 すぐ下には、二年への進級決定の文字もある。画面の白い光を見つめたまま、俺は鞄の持ち手を握り直した。嬉しい、と言葉にするより先に、ようやく机から立ち上がれたような安堵が広がる。眠気を追い払いながら解いた問題も、二人と飲んだ紅茶も、ちゃんとここにつながっていた。「……よし」 隣ではテオが袖口をつかみ、一覧の途中から目を動かせずにいる。俺は彼の名前を見つけ、画面を指した。「テオ、そこ。進級決定って」 テオが身を乗り出した。名前を読み、右側の表示を読み、もう一度名前へ戻る。やがて袖を握っていた指がほどけた。「俺も、二年になれるんだよな」「なれるわよ。わたしも一緒」 エマが自分の結果を示すと、テオは彼女の手を取った。勢いよく何か言いかけた口を閉じ、包んだ手を一度だけ揺らす。「ありがとな。何回も教えてくれて」「ちゃんと覚えたのはテオでしょ」 エマは照れたように画面へ顔を戻したが、その手は離さなかった。「わたしも、薬の

  • 入学初日に、世界を救う医療戦士に選ばれました〜光のハンカチと3人の治療簿〜   第45話 君を守るために、つい

     獅子寮の共用机には、冬の午後の日差しが斜めに差していた。カップから立つ柑橘の香りが、暖房の風に薄まっていく。俺は問題集の余白に小さく印をつけ、正解したはずの式をもう一度たどった。答えが合っていても、途中で迷った箇所は残したくない。四寮合同一年生総合試験の表紙をめくるたび、首席という二文字が頭をよぎる。「ここ、どうして順番が逆になるんだ?」 向かいでテオの鉛筆が止まった。エマは自分の教材に指を挟み、彼のノートをのぞき込む。「逆にしたんじゃなくて、こっちを先に確かめてるの。ほら、この条件」 細い指が、テオの見落とした一行をなぞった。彼は額にかかった髪を払い、消しゴムを動かす。紙を破りそうな勢いになると、エマがノートの端を押さえた。「ああ……じゃあ、さっきの問題も同じか?」「そう。気づいたなら、そっちも直しておこう」 叱る声を待っていたわけではないのに、その穏やかな応答に俺まで頬が緩んだ。テオもふざけず、前のページを戻って式を書き直している。「落第回避まで、あと何問?」「数える時間で一問解けるわ」「はいはい。研究責任者になる人は厳しいね」「なるために勉強してるの。わたしも、まだ分からないことばかりよ」 エマの教材には、光の病に関わる項目だけ違う色の付箋がついていた。自分の目標を口にしたあとも、彼女はテオの鉛筆が動き出すまでページを閉じない。肩が触れそうな距離で、二人が同じ式を目で追っている。「この二人、ずいぶん仲良くなったな」 紙の擦れる音に紛れるつもりで呟くと、エマが顔を上げた。「わたしたちの見物より勉強に集中して!」「してるって。ちょっと目を休めただけ」 慌てて問題集へ戻った俺の指先が、さっきと同じ行を探す。テオが笑いをこらえて鼻を鳴らし、エマも口元だけを緩めた。 一区切りつけて自室に戻るころには、窓の光が机の脚まで下がっていた。医療棟で二人と合流するまで、まだ少し時間がある。俺は保管していた封筒を取り出し、カードの角に指を添えた。 紙は薄いのに、なくなったときには、そこに書いた言葉まで取り戻せない気がした。見つかったと知らせたときのミナの声が耳に戻る。渡す前から、ずいぶん心配をかけてしまった。 引き出しの内側、手前の浅いくぼみに封筒を寝かせた。端が引っかからないよう指でならし、閉める直前にもう一度位置を確かめる。クリスマスに

  • 入学初日に、世界を救う医療戦士に選ばれました〜光のハンカチと3人の治療簿〜   第44話 戻ったカード、消えない疑問

     ペン先が止まったまま、教材の余白に小さな染みが広がっていた。指を動かしかけても、上着の空のポケットが気にかかる。何度確かめても、ミナに渡すはずのカードの角は触れない。 獅子寮の学習室では、白い窓枠に銀の飾りが揺れていた。卓上のツリーが淡く瞬き、冷めかけた紅茶から甘い香りが立っている。パーティを待つこの部屋で、俺だけが何かを置き去りにしたように、同じ設問から進めずにいた。 向かいでエマが参考書を動かすと、テオは無言でノートを寄せた。腕が触れないほどの隙間が二人の間にある。普段なら気にも留めない距離が、今夜は妙に目についた。「ミナに渡すクリスマスカード、なくしたんだ」 口にすると、二人の手が止まった。「何でそんなこと黙ってたんだよ!」 テオが顔を上げた。思わず背筋が伸びたが、俺もペンを置いて彼に向き直った。「自分で見つけられると思った。でも、見つからない。二人にも手を貸してほしい」「最初から言えよ。ずっと隣にいたんだからさ」 強い声のあとで、テオは俺の教材へ目を落とした。解答欄の白さを見られた気がして、俺は小さくうなずいた。「マルクスは? ミナの検査結果を改ざんした奴だぞ。俺、蛇寮の近くを探ってくる」「気になる。でも、カードの件まであいつだと決まったわけじゃない」「分かってる。まず探す」 エマは端末に学内図を開き、俺のほうへ差し出した。「最後に確認したところから、順番に教えて。覚えていない部分は、そのままでいいから」 俺の答えに合わせ、通路や部屋に印がついていく。曖昧な記憶を無理に埋めようとすると、エマは指を止めて待ってくれた。「焦るわよね。大切なものだもの。でも、探す場所は整理できるわ」 頭の中で何度も繰り返していた道順が、画面の上では限られた範囲に収まった。なくしたことを考えるばかりで、探し方まで狭くなっていたのかもしれない。「ありがとう。俺は医療棟を確かめてくる。終わったら合流しよう」 医療棟の廊下は寮より少し涼しく、窓にはルミナス市の灯りが細かく映っていた。病室へ入ると、ミナが読んでいた本から顔を上げた。その笑顔に、手ぶらで来たことが急に申し訳なくなる。「渡すつもりのカードをなくしたんだ。この辺りも探していい?」「わたしへの?」 ミナは本に栞を挟み、ベッドから足を下ろした。「それなら、わたしも探す。椅子の下、奥まで

  • 入学初日に、世界を救う医療戦士に選ばれました〜光のハンカチと3人の治療簿〜   第43話 すれ違う心とクリスマスの約束

     獅子寮の談話室には、湯気の立つ茶の匂いが漂っていた。白いテーブルに端末の青い光が映り、俺の手元で教材の影が薄く伸びている。窓の外では、校舎を結ぶ通路の飾りが夕暮れに輝き始めていた。そちらへ目をやりかけ、俺は指に触れる紙の端をめくった。 向かいのエマが示した箇所を、テオがペンで追う。さっきまで首をひねっていた彼は、三つの項目を囲むと、得意そうに顔を上げた。「これ、パーティの準備と同じ順番で覚えればいいんじゃないか? 場所を確認、必要なものを用意、それから動く。そうだ、当日の席なんだけどさ」 覚え方には感心したものの、最後のひと言で俺のペンも止まった。エマは苦笑し、教材の続きを指した。「席は休憩のときに決めましょう。今は、何を確認するのか答えて」 彼女の端末の脇には、服の色を書き留めた小さなメモがある。教材に挟まれかけたそれを丁寧に避ける様子からも、パーティを待ち遠しく思う気持ちが伝わってくる。だからこそ、今のうちに勉強を進めたいのだろう。俺も同じ気持ちで空欄に向き直った。 テオは二問続けて答え、間違えた箇所には印をつけた。ところが次の説明を読みかけたところで、また窓の飾りへ目を向ける。「あの色、エマの服にも合いそうだよな。俺も何かそろえたら――」 エマの指が、ページの端を押さえたまま動かなくなった。先ほどの笑みが消え、言葉の間に短い息が入る。「わたしも楽しみにしているわ。でも、二年生になったら本格的な医学生の訓練が始まるのよ。今より厳しくなるのに、集中できないたびに楽しい話へ逃げるつもり?」 テオは口を閉じた。ペンの先が紙から浮き、そのまましばらく戻らない。俺が声をかけるより先に、彼は椅子の背から身を起こした。「逃げてるって言い方はないだろ。ちゃんと考えて答えてるし、分からないところも聞いてる。少し話しただけで、何も考えてないみたいに言うなよ」 エマの眉が寄った。彼女が戻したいのは勉強の話で、テオが否定したいのは自分の取り組み方への決めつけなのだと思う。けれど、互いの顔を見据える二人には、そのずれを確かめる余裕が見えなかった。「その少しが何度も続くから、わ

  • 入学初日に、世界を救う医療戦士に選ばれました〜光のハンカチと3人の治療簿〜   第42話 聖夜を待つ二人

     獅子寮の共用ラウンジには、温めたミルクの甘い匂いが漂っていた。白い壁に照明が淡い金色を落とし、窓の向こうではルミナス市の明かりが重なっている。俺はマグカップを片手に、端末に表示したクリスマス・パーティの案内を眺めていた。開催日を指でなぞると、その数字の隣にミナの笑顔を置いてみたくなる。「ハヤト、さっきからそこばっかり見てるぞ。もう当日の服まで決めた?」 向かいのテオが身を乗り出した拍子に、隣のエマの袖に肘が触れた。彼はすぐに腕を引き、彼女の前へカップを寄せる。取っ手を受け取ったエマは、抗議する代わりに自分の膝に置いていた端末を少し傾け、テオにも画面が見えるようにした。「服はまだ。まずは、ミナと一緒に過ごしたいと思ってる」 口にしてみると、ぼんやり眺めていた日付が急に近くなった。会場に来られるかは、まだわからない。それでも、クリスマスに誰の隣にいたいかは決まっている。 テオは俺の画面をのぞき込むのをやめ、背もたれに肩を預けた。「いいな。俺もエマとゆっくり過ごしたい。いつもと違う格好で待ち合わせとかさ。同じ寮なのに、ちょっと遠くから来たふりして」 エマがカップの縁から目を上げた。呆れるかと思ったのに、彼女の唇は柔らかくほどけていた。「遠くから来たふりはいらないけれど、待ち合わせはしたいわ。着替えが終わるまで廊下で待たれるより、落ち着いて準備できるもの」 テオが早くも待つ場所を考え始める。その横で、エマは彼の袖に付いた小さな糸くずをつまみ取った。何でもない仕草なのに、二人の間だけ空気が温かく見えて、俺までカップの陰で口元を緩めた。 ラウンジの扉が開き、鹿寮のアキト先輩が顔を出したのは、そのときだった。俺たちを見つけると片手を上げ、空いている椅子の背に指を掛ける。「楽しそうだね。何の相談?」「クリスマスの話です。先輩、ちょうどよかった。光の護身術の練習も、一度――」「その相談より先に、クリスマスの重要事項を伝えたいな」 先輩は素早く椅子を引き、俺の端末に視線を落とした。その切り替えの鮮やかさにテオが吹き出す。俺は持ち上げかけた手をカップへ戻し、先輩に続きを促した。「そんなに構えなくても、まだ日程も言ってませんよ」「日程が決まる前が大事なんだよ。ハヤトに見てもらうとなったら、休憩まできっちり管理されそうだからね」 先輩は冗談めかして肩をすく

  • 入学初日に、世界を救う医療戦士に選ばれました〜光のハンカチと3人の治療簿〜   第41話 君と過ごしたいクリスマス

    「ちょっとあんたたち、いつまで抱き合ってるのよ!」 甲高い声が響いても、腕をほどくには少し時間がかかった。胸元に寄せられたミナの身体が、呼吸に合わせてわずかに動く。病衣越しのぬくもりも、襟に触れる柔らかな吐息も、離れた途端に失われそうで、指先が布をつかんでいた。 ミナに袖を引かれ、ようやく力を緩める。覗き込んだ顔には疲れが残っていたけれど、俺を見上げる目は開いていた。背中に手を添えて枕へ戻すと、髪が白いカバーに広がる。くぼんだ寝具から、二人分の温かさがゆっくり逃げていった。 その向こうで星が揺れた。ベッド脇に置いた杖が、誰にも支えられず浮き上がっている。先ほど聞きそびれた声の主が、今度こそこちらを向いていた。「杖が喋った!」 テオがエマの肩から手を離し、指を突き出した。涙の跡が残る顔を見上げる間に、杖が一直線に飛ぶ。彼の上腕を軽く叩き、かばおうとした腕の隙間から反対の肩も小突いた。痛いというより、どちらを守ればいいのかわからないようで、テオの肘が忙しく上がったり下がったりする。「あんた、指をささないでよ!」 声の大きさでは杖も負けていない。テオがエマの後ろへ身を寄せると、彼女は助けようとして伸ばした手を途中で止め、唇を結んだ。その肩の震えが目に入り、俺まで口元を押さえる。白い壁に映る二人と一本の影が、妙にせわしない。「杖さん、かわいい」 隣から届いたかすかな声に、杖の動きが止まった。テオへ向けていた柄を下げ、今度はそっと空気を滑って戻ってくる。ミナが布団から指を出すと、その手に触れる寸前で速度を落とした。「あなた、見る目があるじゃない」 先ほどの剣幕はどこへ行ったのか。甘い声とともに星が傾き、ミナの指の下へ収まる。掛け布団に淡い光がにじみ、指が動くたびに小さな影も揺れた。俺の袖をつかむことしかできなかった手が、今は何かをかわいがっている。それを眺めているうち、つられて指先の力が抜けた。 ミナの喉から小さな笑いがこぼれた。長くは続かず、すぐ枕に頬を預けたけれど、その口元にはまだ笑みがある。寝具を直すふりで少し身をかがめ、俺も同じ高さから星を見た。「こんなミーハーに作ったつもりじゃなかったんだけど」 アキト先輩が申し訳なさそうに手を伸ばし、杖を取り上げるか迷ったように引っ込めた。説明を探す口が一度開いて、結局そのまま閉じる。作った本人まで遠慮

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