تسجيل الدخول店を出たとき、発車時刻まで四十分を切っていた。
制服一式も、実習用の靴も、分厚い教本も、薬草学の器具も、銀色の留め具がついた魔法縮小箱の中に収まっている。両手に抱えられるほどの大きさだが、重さまでは消えないらしく、走るたびに腕へずしりと負担がかかった。
ルミナス駅へ続く大通りは、旅人と学生であふれていた。
白い治療服を着た医師たちが足早に行き交い、その間を、浮遊式の荷車が滑るように進んでいく。頭上では細長い飛行車が交差し、建物の壁に映し出された案内表示が、ルミエール特急の発車時刻を刻一刻と減らしていた。
「間に合ってくれ……!」
縮小箱を抱え直し、俺は人混みを縫うように走った。
駅へ着いたときには、額から汗が流れていた。
巨大な半円形の天井の下に、無数の乗り場が並んでいる。列車の発着を知らせる声、車輪の音、別れを惜しむ人々の声が重なり、構内全体が生き物のようにざわめいていた。
床に埋め込まれた赤い案内線を追うと、ルミエール特急専用の改札へたどり着いた。
そこには、俺と同じ灰色の制服を着た新入生たちが並んでいる。
きっちりとネクタイを締めた者もいれば、家族に何度も振り返りながら手を振っている者もいた。胸元に縫いつけられた寮章は獅子、鷹、鹿、蛇とさまざまだ。
俺は私服姿のまま、列の最後尾へ並んだ。
前にいた二人組の女子生徒が振り返り、俺の顔を見た。
一人が大きく目を見開く。
「ねえ、あの人……」
「うそ。動画の人じゃない?」
押し殺した声のつもりなのだろうが、すぐ後ろにいる俺にははっきり聞こえた。
俺が顔をそらすと、今度は隣の列にいた男子生徒がこちらをのぞき込んだ。
「あれが医療戦士?」
「ミナって子を助けた人だろ。光るハンカチを使ったっていう」
「まだ入学前なのに?」
視線が一つ増えるたび、背中に見えない針を刺されているようだった。
俺はただ、あのとき目の前にいたミナを助けたかっただけだ。
自分が何をしたのか、今でも全部を理解しているわけではない。
それなのに、知らない人たちは動画の中の俺を知っている。
「次の方」
係員に呼ばれ、俺は慌てて合格証を差し出した。
紙に刻まれた獅子の紋章が金色に光る。
「ハヤト・キサラギさん。獅子寮ですね」
「はい」
係員は合格証と俺の顔を見比べた。
その目にも、わずかな驚きが浮かんだ。
「あなたが、あの……」
またか。
身構えた俺に、係員は途中で言葉を切った。
「失礼しました。車内では制服を着用してください。発車まで、あと二十五分です」
「ありがとうございます」
俺は合格証を受け取り、更衣室へ駆け込んだ。
買ったばかりの制服からは、新しい布の匂いがした。
灰色の上着に、赤いベスト。白いシャツと赤いネクタイ。寸法は合っているはずなのに、袖を通した瞬間から落ち着かなかった。
鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、俺ではない誰かに見えた。
名門校へ入ることを許され、立派な制服を着こなし、これから医師への道を歩んでいく人間。
その姿だけを見れば、堂々としている。
けれど、その中にいる俺は、まだ何も始めていない。
ネクタイを締めようとして、うまく結び目が整わなかった。左右の長さが合わず、直すほど形が崩れていく。
「時間がない……」
結局、少し緩んだまま襟元へ押し込み、上着のボタンも一つ掛け違えた。気づいてはいたが、直す余裕はない。
縮小箱を抱え、俺はそのままホームへ走った。
ルミエール特急は、白銀の車体に青い光の線を走らせた長い列車だった。
扉の横には校章が浮かび、乗車する生徒の合格証へ光を当てている。俺が乗り込むと、外の喧騒が急に遠のいた。
発車を知らせる鐘が鳴る。
俺は空いているコンパートメントを探し、ようやく一人になれる部屋を見つけた。
赤いベルベット張りの座席へ腰を下ろした途端、全身から力が抜けた。
列車が静かに動き始める。
窓の外でルミナス市の建物が流れ、やがて広い草原が見え始めた。
六時間の旅だ。
教本を読めば、基礎だけでもかなり進められる。
俺は縮小箱から一冊を取り出し、青い表紙を開いた。
だが、一行目を読み終える前に、通路から声が聞こえてきた。
「あの部屋にいるぞ」
「本当に?」
扉の小窓に、何人もの顔が現れた。
「ハヤト・キサラギさんですよね?」
扉が開き、女子生徒が勢いよく身を乗り出してきた。
「え……ああ」
「やっぱり! あの動画、何度も見ました。光が広がった瞬間、鳥肌が立って……!」
その後ろから、別の生徒も顔を出す。
「入学前から患者を救うなんて、すごいよな」
「医療戦士って、実際にはどんな力なんですか?」
「光のハンカチを見せてもらえませんか?」
「どうやって発動したんですか?」
質問が次々と飛んでくる。
「いや、俺にもまだ、よくわからなくて……」
「謙遜しなくてもいいのに」
「入学したら、特別授業を受けるんですか?」
「学校から直接呼ばれたって本当?」
「握手してもらっていいですか?」
返事をする間もなく、手を差し出された。
断る理由も見つからず、俺は戸惑いながら握り返した。
「ありがとうございます。私、治療術が苦手なんですけど、ハヤトさんを見て頑張ろうって思ったんです」
「俺を見て?」
「はい。普通の人でも、誰かを助けたいって強く願えば、あんな奇跡を起こせるんだって」
悪意のない言葉だった。
むしろ、真剣に俺を褒めてくれている。
それなのに、胸の奥が苦しくなった。
普通の人。
確かに俺は、特別な家に生まれたわけでもない。医師の家系でもなければ、幼いころから英才教育を受けてきたわけでもない。
けれど、知らない相手から自分の人生を一言で決められたような気がした。
「ちょっと、騒ぎすぎじゃない?」
通路の後ろから、冷めた声が聞こえた。
長い髪を高い位置で結んだ女子生徒が、腕を組んでこちらを見ている。
「動画ではもっとすごい人に見えたけど、その割には普通だね」
隣にいる男子生徒が俺の制服へ視線を落とした。
「制服の着方も変だし。上着のボタン、掛け違えてるぞ」
「本当に本人なの?」
「顔は同じじゃない?」
「でも、医療戦士ってもっと威厳があるものだと思ってた」
コンパートメントの空気が変わった。
さっきまで俺を囲んでいた生徒たちも、困ったように互いの顔を見る。
「入学前に力を使えたからって、授業でも優秀とは限らないだろ」
「一度だけの偶然かもしれないしな」
「そもそも動画だって、全部映っていたわけじゃないし」
俺は何も言い返せなかった。
褒められても困る。
疑われても、否定できない。
俺自身が、自分に何が起きたのかわかっていないのだから。
無意識に、上着の掛け違えたボタンへ手を伸ばした。
今すぐ直せばいい。
ネクタイも締め直し、姿勢を正せば、少なくとも見た目だけは名門校の生徒らしくなる。
だが、指はボタンに触れたまま止まった。
直したところで、何が変わるのだろう。
制服を正しく着れば、医療戦士らしく見えるのか。
見知らぬ人たちが期待する誰かになれるのか。
俺はボタンから手を離した。
「すみません。少し休みたいので」
ようやくそれだけ言うと、最初に声をかけてきた女子生徒が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい。急に押しかけて」
生徒たちは一人ずつ通路へ戻っていった。
扉が閉まる。
静けさが戻ったはずなのに、耳の奥では、さっきの言葉が何度も繰り返されていた。
その割には普通だね。
制服の着方も変だし。
俺は教本へ目を落とした。
文字を追っても、意味が頭に入ってこない。
窓の外の景色が流れるたび、胃の奥がゆっくり揺れた。額に冷たい汗が浮かび、呼吸が浅くなる。
昼食をほとんど取っていなかったことも、駅まで走ったことも、緊張し続けていたことも、全部が一度に押し寄せてきた。
「六時間、これが続くのか……」
教本を閉じ、座席へ背中を預けた。
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「お、やっと空いてる部屋を見つけた」
明るい声とともに、同じ制服を着た青年が現れた。
左へ流した明るい茶髪。人なつこそうな目。俺より少しだけがっしりした体格で、大きな旅行鞄を片手に持っている。
「ここ、座ってもいいか?」
「ああ。どうぞ」
「助かった。さっきまで通路が人で詰まっててさ。医療戦士が乗ってるとかで、みんな同じ方向へ走っていくんだよ」
青年は向かいの席へ鞄を押し込んだ。
そして俺の顔を見た。
窓の外を見る。
もう一度、俺を見る。
「……もしかして、医療戦士ってお前?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
「周りはそう呼んでる。でも、俺自身はよくわからない」
「なるほど」
青年は深くうなずいた。
「つまり本人にも事情が飲み込めてないのに、先に呼び名だけが走り回ってるわけだ」
「そんな感じだ」
「大変だな。有名人」
「他人事みたいに言うなよ」
「今のところ他人だからな。これから同じ寮なら、他人じゃなくなるかもしれないけど」
青年は胸元の獅子の紋章を指で示した。
「テオ・アルト。獅子寮の一年」
「ハヤト・キサラギ。俺も獅子寮だ」
「知ってる。さっき通路で、二十人くらいが名前を叫んでた」
「そんなにいたのか……」
「人気者はつらいな」
テオは悪びれずに笑った。
その視線が、俺の上着へ落ちる。
「それにしても、すごい着方だな」
「やっぱり変か?」
「ネクタイは逃げかけてるし、上着のボタンは別の穴に引っ越してる。ベストの裾も片方だけ出てるぞ」
「急いでたんだ」
「直さないのか?」
俺は自分の胸元を見た。
「今は、このままでいい」
「ふうん」
テオは理由を尋ねなかった。
「まあ、制服なんて授業を受けるわけじゃないしな」
「着るのは俺たちだけどな」
「細かいことを言う医療戦士だ」
「その呼び方、やめてくれ」
「じゃあハヤトで」
あっさりと言われ、拍子抜けした。
「聞かないのか? 動画のこと」
「気にはなる」
「なら、どうして」
「会ったばかりの相手を質問攻めにしたら、逃げられるだろ。俺は獅子寮で、話せる相手を一人でも多く確保したいんだ」
「正直だな」
「人間関係は最初が大事だからな」
テオがそう言った直後、扉が再び開いた。
「ここは空いているかしら」
落ち着いた声とともに、肩までかかる髪を細かく巻いた少女が立っていた。
灰色の上着に赤いリボン、長めのチェック柄のスカート。胸元には、俺たちと同じ獅子寮の紋章がある。
「空いてるよ。獅子寮なら歓迎する」
テオが自分の隣を示す。
少女はすぐには座らず、俺をじっと見た。
「あなた、顔色が悪いわ」
「え?」
「額に汗をかいている。呼吸も浅い」
俺が返事をするより早く、テオが口を挟んだ。
「制服の着方を指摘されて、心に深い傷を負ったらしい」
「勝手に人の病名を作るな」
「病名ですらないでしょう」
少女はテオへ冷たい視線を向けた。
「具合が悪そうな人を見て、よくそんなことが言えるわね」
「緊張をほぐそうとしたんだよ」
「本人が余計に疲れた顔をしているけれど」
「俺の冗談は、あとから効いてくる種類なんだ」
「薬草なら使用禁止にされているわね」
「会って十秒で厳しいな」
二人のやり取りを聞いているうちに、胃が大きく揺れた。
俺は口元を押さえ、座席へ深く背中を預ける。
少女の表情が引き締まった。
「景色を見ないで。頭を動かさず、背もたれに預けて」
声は静かだったが、迷いがなかった。
「吐き気は?」
「少し」
「腹痛は?」
「ない。胃が重い感じがする」
「寒気や熱っぽさは?」
「それもない」
「食事は取った?」
「朝はパンを食べた。昼はほとんど何も」
「列車に乗る前から具合が悪かった?」
「いや。しばらくしてからだ」
少女は俺の返事を一つずつ聞き、目元や呼吸を確かめていく。
「乗り物酔いの可能性が高いわ。空腹と疲労、緊張も重なっていると思う。ただし、痛みや熱が出たらすぐに言って。別の原因も考えなくてはいけないから」
「君、上級生なのか?」
「今日から一年生よ。あなたたちと同じ」
少女は鞄から細長い金属製の箱を取り出した。
蓋を開くと、薄い紙に包まれた乾燥薬草が、種類ごとに整然と並んでいる。
テオが目を丸くした。
「普通、新入生の鞄からそんなものが出てくるか?」
「必要になると思ったから持ってきたの」
「俺は菓子と着替えしか持ってきてない」
「あなたの鞄の中身を基準に、世間の普通を決めないで」
少女は乾燥させた葉を少量取り出し、香りを確かめた。
「テオ・アルト。給湯器から、ぬるめのお湯をもらってきて」
「俺、名乗ったっけ?」
「扉の外まで聞こえる声で名乗っていたでしょう」
「聞いてたのか」
「早くして。熱すぎるお湯は駄目よ」
「はいはい。薬草学の先生」
「先生ではないわ」
そう言いながらも、テオはすぐに立ち上がった。
扉を開けたところで、通路にいた生徒たちとぶつかりそうになる。
「医療戦士のハヤトさんがいる部屋って、ここ?」
興奮した声が聞こえた。
「今、具合悪いから後にしてくれ」
「えっ、医療戦士でも具合が悪くなるの?」
「なるだろ。人間なんだから」
「でも、医療戦士なら自分で治せるんじゃないの?」
「そんな便利なものだったら、医者も学校もいらないだろ」
テオは扉を閉め、通路の声を遮った。
少女がわずかに眉を上げる。
「意外とまともなことを言うのね」
「今の言葉、もう一度頼む。記念に覚えておきたい」
「早くお湯を取ってきて」
「褒め言葉の有効時間が短すぎる」
テオが出ていくと、少女は薬草を薄い布で包み始めた。
「エマ・リンデン。私も獅子寮よ」
「ハヤト・キサラギ。助かる」
「まだ助かると決まったわけではないわ。薬草で具合が悪くなったことは?」
「ない」
「苦手な香りは?」
「強い花の匂いは少し」
「薄荷は?」
「大丈夫だと思う」
「思う、ではなくて、今まで口にしたことは?」
「飴ならある」
「そのとき異常はなかった?」
「ああ」
エマは質問を重ねながら、薬草の量を慎重に調整していた。
顔を見ただけで、すべてを言い当てるわけではない。
わからないことを尋ね、返事を聞き、少しずつ可能性を絞っていく。
その姿を見ていると、胸の奥の緊張が少しだけほどけていった。
ほどなくして、テオがカップを二つ抱えて戻ってきた。
「ぬるめのお湯と水。ついでに、食堂車で塩味の薄いパンももらってきた」
「気が利くじゃない」
「今の、今日二回目だな」
「何が?」
「俺を認める言葉」
「一回目は、まともなことを言ったのが意外だと言っただけよ」
「それでも褒められたことにしておく」
エマは受け取った湯の温度を確かめ、薬草を包んだ布を沈めた。
淡い緑色がゆっくりと広がる。
「ハヤト、少しずつ飲んで。急に全部飲まないでね」
「ああ」
カップを受け取ると、温かさが冷えていた指へ染み込んだ。
一口飲む。
薄荷の涼しい香りが鼻へ抜け、あとからわずかな甘みが広がった。
「飲めそう?」
「大丈夫。思っていたより飲みやすい」
「失礼ね。苦いものしか作れないと思ったの?」
「いや、薬草ってもっと強い味なのかと」
「量と組み合わせ次第よ。何でも多く入れれば効くわけではないの」
テオが横からカップをのぞき込んだ。
「俺も飲んでみたい」
「あなたは酔っているの?」
「味が気になる」
「必要のないものを面白半分で飲まないで」
「お茶みたいなものだろ?」
「ハヤトの状態に合わせて作ったの。あなたに必要かどうかは別の話よ」
「じゃあ、俺専用の元気が出る薬草湯を作ってくれ」
「必要なのは睡眠と落ち着きね」
「落ち着きは薬草で補えないのか?」
「あなたの場合、相当な量が必要になりそうだわ」
言い返しながらも、テオは窓の遮光を半分まで下ろしてくれた。
流れる景色が隠れ、光が柔らかくなる。
俺の膝に載っていた教本も取り上げ、隣の席へ置いた。
「勉強は元気になってからだ」
「六時間を無駄にしたくなかったんだ」
「入学前の列車で倒れるほうが、よっぽど無駄だろ」
「珍しく正論ね」
「エマは俺を何だと思ってるんだ?」
「まだ判断材料が足りないわ」
「つまり、これから知ってもらえる余地がある」
「どうして良い方向にしか受け取らないのよ」
二人の会話を聞いているうちに、胃の重さが少しずつ薄れていった。
額の汗も引き、深く息を吸えるようになる。
「だいぶ楽になった」
俺がそう言うと、エマの表情がわずかに緩んだ。
「吐き気は?」
「ほとんどない」
「頭のふらつきは?」
「さっきより軽い」
「なら、水を一口だけ飲んで。そのあと、パンを少し食べてみましょう」
テオが包みを開いた。
「食堂車の人に、医療戦士が具合悪いって言ったら、これをくれた」
「言ったのか?」
「言わないと、食堂が混んでる時間にパンだけ売ってもらえなかったんだよ」
俺は頭を抱えたくなった。
「また広まるだろ」
「もう十分広まってる」
「そういう問題じゃない」
「でも、今は食べたほうがいいでしょう」
エマがパンを半分に割った。
「少しずつなら大丈夫そうね。テオの余計な一言が、今回は役に立ったわ」
「俺の行動は長い目で見ると全部役に立つ」
「それは今後、慎重に検証しましょう」
二人に見守られながら、俺はパンを口に運んだ。
塩気の薄い生地が、空っぽだった腹へゆっくり落ちていく。
食べ終わるころには、体の中へ力が戻り始めていた。
「ありがとう。二人が来なかったら、たぶんずっと我慢してた」
「具合が悪いと伝えることも、治療には必要よ」
エマは薬草箱の蓋を閉じた。
「助ける側になりたい人ほど、自分が助けを求めるのを嫌がることがあるわ。でも、症状を隠されたら、周りは判断できない。医師を目指すなら、自分が患者になったときのことも覚えておいたほうがいいと思う」
厳しい言葉だったが、不思議と胸には刺さらなかった。
俺はずっと、誰かを助けられる人間になりたいと思ってきた。
そのためには、何でも一人でできなければいけないと思っていた。
けれど今、俺は二人に助けられた。
その事実は情けなさよりも、温かさを残していた。
扉の外で、再び足音が止まった。
「ハヤトさん、もう具合は大丈夫ですか?」
先ほどの女子生徒が、おそるおそる顔を出した。
「さっきは押しかけてしまって、ごめんなさい」
「いや、俺もちゃんと答えられなくて」
「これ、よかったら」
彼女は小さな紙袋を差し出した。
「食堂車で売っていた飴です。医療戦士が同じ学校にいるって知って、うれしくなってしまって……。私の弟も、あの動画を見ているんです」
「弟さんも?」
「病気で、長く治療を受けています。あの日から毎日、医療戦士なら自分も治してくれるかなって話していて」
胸の奥が締めつけられた。
俺はまだ、誰かの病気を治せるような人間ではない。
動画に映った一度の光だけで、その子の期待に応えられる保証などない。
「弟さんに、伝えてください」
口を開いたものの、続く言葉が見つからなかった。
必ず助けるとは言えない。
簡単に希望を持たせるのも怖い。
「俺はまだ、学校に入る前の学生です。何ができるのかも、わかっていません。でも、これから勉強します。弟さんみたいな人を助けられるようになるために」
女子生徒はしばらく俺を見つめ、静かにうなずいた。
「伝えます」
紙袋を受け取ると、彼女はほっとしたように笑って去っていった。
その直後、離れた場所から別の声が聞こえた。
「期待させるだけなら、誰にでもできるよな」
「制服すらまともに着られないのに、患者を助けるって?」
「入学してから実力がわかるだろ」
姿は見えなかった。
だが、その言葉だけが冷たく残った。
俺はまた、掛け違えたボタンへ手を伸ばした。
今度こそ直すべきなのだろうか。
医師を目指すなら。
期待される人間なら。
少なくとも、きちんと見える格好をするべきなのかもしれない。
けれど俺は、指先を離した。
「直さないの?」
エマが尋ねた。
「今は、このままでいる」
「どうして?」
「わからない。でも、言われたから直すのは違う気がする」
テオが俺の上着を眺めた。
「俺は、その着方が格好いいとは思わないぞ」
「そこは否定しろよ」
「ただ、直すかどうかを決めるのはハヤトだろ」
エマも少し考えたあと、短く息をついた。
「授業が始まる前には直したほうがいいと思うわ」
「それはわかってる」
「なら、今は好きにすればいいんじゃないかしら」
「エマまで認めた」
テオがうれしそうに口を挟む。
「あなたの意見を認めたわけではないわ」
「俺たち、意外と考え方が合うかもしれないな」
「今の会話のどこを聞いていたの?」
また始まった二人の言い合いに、俺は思わず笑った。
さっきまで胸を締めつけていた言葉が、少しだけ遠ざかっていく。
体調が戻ってから、俺たちは三人で教本を開いた。
エマは自分の鞄から、俺のものより分厚い薬草図鑑を取り出した。紙の間には何十枚もの札が挟まれ、余白には細かな文字で書き込みがある。
「もう読んだのか?」
「三回だけ」
「三回も、だろ」
俺とテオの声が重なった。
「覚えきれていない部分も多いわ」
「一回も開いてない俺の立場はどうなるんだ」
「今日から開けばいいでしょう」
「その言い方、簡単そうに聞こえるな」
テオは俺の教本に描かれた人体図をのぞき込んだ。
「この長い骨が腕で、短い骨が指か」
「見ればわかるだろ」
「俺はもっと独自の覚え方を探してるんだ」
「独自にする必要はないわ。正式名称を覚えて」
「最初から難しい名前を全部覚えたら、頭が疲れるだろ」
「医療専門学校へ何をしに来たのよ」
「医者になるため」
「なら覚えなさい」
テオは唸りながら教本を見つめ、急に人体図の一部を指さした。
「ここ、獅子の横顔に見えないか?」
「見えない」
「ハヤトは?」
「少しだけ」
「仲間がいた」
「ハヤトまで、この人に合わせなくていいのよ」
「でも一度そう見えると、もう獅子にしか見えないな」
「二人とも、教本へ余計な印象を植えつけないで」
真面目に訂正するエマと、次々に妙な覚え方を作るテオ。
俺も途中から口を出し、三人で同じ図を囲んだ。
エマは間違いを見つけるたびに正したが、わからない部分を尋ねると、嫌な顔一つせず説明した。
テオはすぐ脱線したが、難しい内容を簡単な言葉に置き換えるのがうまかった。
一人で読んでいたときより、教本の内容が頭へ入ってくる。
「ハヤトは、どうして医師になろうと思ったんだ?」
テオが尋ねた。
「助けたい人がいるから」
「動画に映っていた子?」
俺は答えに迷った。
ミナの顔が浮かぶ。
あの日、光に包まれた小さな手。
二年前に姿を消してから、ずっと探し続けていた大切な存在。
「ああ」
それ以上は言えなかった。
テオも、深くは聞かなかった。
「じゃあ、助けられるようにならないとな」
「簡単に言うなよ」
「難しいから、この学校に来たんだろ?」
その言葉に、俺は黙った。
軽く見えるテオの言葉は、ときどき真っすぐ胸へ入ってくる。
「テオは?」
「俺は、家族に医師が多いんだ」
「家の後を継ぐのか?」
「それを期待されてる。でも、俺自身が何をしたいかは、まだ決まってない」
「決まっていないのに、入学したの?」
エマが尋ねる。
「決まってないから来た。ここで探せばいいだろ」
「ずいぶん楽観的ね」
「エマは全部決めてるのか?」
「薬草を使った治療法を学びたいわ。今ある薬では助けられない病気に、別の道を作りたい」
エマは膝の上の薬草図鑑へ目を落とした。
「薬草は、使い方を間違えれば毒になる。でも、正しく使えば、ほかの方法では救えない人を救えることもある。私は、その境目を知りたいの」
珍しい薬草の挿絵を見る彼女の目は、車内の灯を映して輝いていた。
「エマは入学前から、もう医師みたいだな」
俺が言うと、エマは顔を上げた。
「まだ何もできないわ。さっきだって、ハヤトの症状が重かったら、車掌を呼ぶしかなかったもの」
「呼ぶ判断ができるなら、それも十分じゃないか?」
「確かに」
テオがうなずく。
「俺なら、とりあえず窓を開けようとして怒られてた」
「走行中は開かないわよ」
「だから被害は出ない」
「そういう問題ではないでしょう」
三人で話しているうちに、時間は思っていたより早く過ぎていった。
外が濃い藍色に染まったころ、車内へ柔らかな鐘の音が響いた。
『まもなく結界通過地点へ入ります。新入生の皆様は、合格証をご用意ください』
俺たちは窓の遮光を戻した。
外には深い森が広がっていた。
行く手には切り立った崖がそびえ、線路はその黒い岩肌へまっすぐ続いている。
「なあ。あれ、止まらないよな?」
テオが窓へ顔を近づけた。
「結界を通過すると言っていたでしょう」
エマは落ち着いた声で答えたが、図鑑を抱える腕にはわずかに力が入っている。
列車は速度を落とさない。
崖が目前へ迫る。
俺は座席の端をつかんだ。
衝突する。
そう思った瞬間、胸元に入れていた合格証が熱を持った。
獅子の紋章から金色の光があふれる。
崖の表面に波紋が広がり、列車は光の中へ滑り込んだ。
一瞬、すべての音が消えた。
窓の外が白く染まり、体が宙へ浮いたような感覚に包まれる。
やがて光がほどけた。
そこには、別の世界が広がっていた。
夜空の下、広大な丘を白銀の校舎が埋め尽くしている。
建物同士を透明な空中通路が結び、丸い屋根の実習棟では青い光が呼吸するように明滅していた。段々に広がる薬草園には色とりどりの灯が浮かび、その向こうには治療棟と、窓明かりのともった学生寮が並んでいる。
中央にそびえる塔を中心に、巨大な結界が半球状に広がっていた。
「これが、本物のルミエールアカデミー……」
声に出した途端、胸の奥が熱くなった。
ここで学ぶ。
ここで、医師になる。
ミナを助けられる人間になる。
「六時間かけた甲斐はあったな」
テオが感嘆の息を漏らした。
「あなた、途中で二時間ほど寝ていたでしょう」
「寝ても景色は逃げない」
「ハヤトの教本を枕にしようとしていたわよね」
「あれは高さを確認しただけだ」
「教本の使い方を最初から間違えているわ」
列車が駅へ近づく。
白い屋根のホームには、多くの生徒や教師らしい大人たちが並んでいた。
俺は縮小箱を持ち、立ち上がった。
ネクタイは緩んだまま。
上着のボタンも掛け違えたままだ。
窓に映る自分は、やはり名門校の新入生らしくは見えなかった。
「本当に、そのまま降りるのか?」
テオが尋ねる。
「ああ」
「目立つと思うぞ」
「もう十分目立ってる」
「それもそうだな」
エマは俺の制服を見て、何か言いかけた。
だが結局、口を閉じた。
列車の扉が開く。
冷たく澄んだ夜風が吹き込み、ホームの光がコンパートメントへ流れ込んだ。
「行こうぜ。獅子寮の一年として」
テオが鞄を肩へ担ぐ。
「まだ寮へも着いていないのに、ずいぶん張り切っているのね」
「最初くらいはな」
「その張り切りが、明日の朝まで続けばいいけれど」
「明日のことは明日考える」
「やっぱり楽観的ね」
二人のあとに続き、俺もホームへ降りた。
その瞬間だった。
周囲の話し声が、急に小さくなった。
一人、また一人と、生徒たちがこちらを見る。
「あれ……」
「ハヤト・キサラギ?」
「医療戦士が来たぞ」
ざわめきが波のように広がっていく。
期待に満ちた目。
疑うような目。
俺の制服を見て、笑う者。
祈るように両手を組む者。
「本当に普通の人なんだ」
「どうして、あんな着方をしてるの?」
「動画の人と同じには見えない」
「でも、あの光は本物だった」
無数の声に囲まれ、足が止まりそうになった。
そのとき、中央の塔から白い光が放たれた。
一度。
二度。
まるで何かを探すように、光が校内を巡っていく。
やがて、その光はホームへ降りてきた。
生徒たちの頭上を通り過ぎ、俺の胸元で止まる。
合格証に刻まれた獅子の紋章が、熱を帯びて輝き始めた。
「何だ、これ……」
俺が合格証を取り出した瞬間、中央の塔から低い鐘の音が鳴り響いた。
ホームにいた教師たちの表情が変わる。
黒い長衣をまとった一人の男性が、こちらへ駆けてきた。
「ハヤト・キサラギは、どこだ!」
周囲の生徒たちが、一斉に俺を見る。
男性も、その視線を追った。
俺の掛け違えた上着のボタンと、緩んだネクタイを見て、一瞬だけ言葉を失う。
「君が……ハヤト・キサラギか?」
「はい」
「すぐに中央治療塔へ来なさい」
「今からですか?」
「今からだ」
男性は、光を放ち続ける俺の合格証を見つめた。
「医療戦士の選定が始まった」
ハヤト、ルミエール特急で親友のエマとテオに出会います。ハヤトは医療戦士と周りの生徒から言われ、戸惑ってしまいます。さらに、制服を着崩してしまいます。はたして、次回の医療戦士の選定では無事に選ばれるのでしょうか。少しでもおもしろい、続きが気になると思われましたらブクマ、評価、レビューいただけると泣いて喜びます。
「やって……ません」 喉の奥に張りついた息を、声と一緒に無理やり押し出した。 視界の端では、白い霞がゆっくりと渦を巻いている。円形に並んだ机も、その向こうに立つ生徒たちも、薄い膜を隔てたように輪郭がぼやけていた。息を吸っても胸の途中で止まり、次の呼吸へうまくつながらない。額から流れた汗が頬を伝い、顎の先から答案用紙へ落ちた。 机の縁をつかむ指先が震えていた。 それでも、俺は教授から目を逸らさなかった。「そんな状態だからカンニングした。違うか!」 教授の鋭い声が、広い試験会場を震わせる。 胸の奥を締めつける圧迫感よりも、その言葉のほうが深く突き刺さった。 身体が思うように動かないことと、心まで折れることは同じではない。 俺は椅子の肘掛けを押し、立ち上がろうとした。膝に力が入らず、椅子の脚が床を大きく擦る。上半身が傾いたが、机へ手をつき、どうにか踏みとどまった。 白い霞の中央に、教授の険しい顔を捉える。「俺は……やってません。体調が悪いからって、不正に逃げたりしない」 声は掠れていた。呼吸も途切れていた。 それでも、言葉だけは揺らがせなかった。 会場のあちこちで交わされていた囁きが、わずかに静まる。 教授の横では、マルクスが偽の答案用紙を掲げていた。冷たく整った顔には、勝ち誇った笑みも、焦りも浮かんでいない。ただ、折り畳まれた紙を挟む指先にだけ、わずかに力がこもっていた。「口では何とでも言える。現に、お前の袖から――」「待ってください」 マルクスの言葉を遮った声は、会場の外周に近い席から聞こえた。 鹿寮の生徒が一人、静かに立ち上がっている。その手には小型の撮影端末が握られていた。 霞む視界を細めた瞬間、俺はその生徒を思い出した。 廊下や講義室で、何度か俺へカメラを向けていた人物だ。俺が視線を返すと、近づいてくるでも話しかけるでもなく、端末を下ろして人混みの向こうへ消えていた。 鹿寮の生徒は名乗らず、教授の前まで歩いていった。「これを確認してください」 差し出された端末を、教授は険しい表情のまま受け取った。 やがて、試験会場正面の大型表示板に映像が映し出される。 映っているのは、試験が始まって間もない会場だった。 画面の中央付近に、机へ向かう俺の姿がある。ペンを握る手はすでに震え、何度か目元を押さえていた。その斜め後ろ
「なんの騒ぎだ!」 張り詰めた空気を切り裂くような声が、医療棟の廊下に響き渡った。 床を打つ靴音が近づいてくる。俺は両腕を広げたまま、ミナとマルクスの間に立っていた。 胸の奥が狭い。息を吸っても、必要な量の空気が入ってこない。視界は薄い水膜に覆われ、窓から差し込む昼の光が白く滲んでいる。それでも、ミナへ伸ばされたマルクスの手と、その冷たい眼差しだけは見失わなかった。 背後から、ミナの浅い呼吸が聞こえる。 守らなければ。 その思いが、震えかけた膝を床へつかせなかった。 駆けつけた教授は、俺たちの顔を順に見た。マルクスの伸ばした手、進路を塞ぐ蛇寮の生徒たち、その前に立つ俺、検査室の扉を背にしたミナ。短い沈黙の間に、目の前の状況を正確に読み取っていく。「ミナ、何があった?」 教授に尋ねられ、ミナは胸元へ添えていた手をゆっくり下ろした。顔色は青白い。けれど、俯くことなく、自分の言葉で答えた。「検査室へ行こうとしたら、マルクスが前に立って……退いてほしいと何度も言いました。でも、聞いてくれませんでした」「触れられたか?」「いいえ。ハヤトが間に入ってくれたから」 その声には微かな震えが残っていた。それでもミナの瞳は逃げず、マルクスへ向けられている。 教授の表情が険しくなった。「マルクス・ヴェルナー! これはどういうことだ! 入院中の未成年患者に詰め寄り、本人の拒絶を無視して接触を強要しようとした。蛇寮を十点減点する!」 廊下の空気が、一瞬で凍りついた。 取り巻きたちが互いの顔を見る。四寮の得点争いが激しさを増している今、十点は小さな処分ではない。しかも獅子寮と蛇寮の差を大きく変える減点だ。「十点ですと?」 マルクスは声を荒らげなかった。 白い指先をゆっくり引き戻し、制服の袖口を整える。その動作には、自分が叱責される側であることなど受け入れていない傲慢さが滲んでいた。「俺は彼女の状態を確認しようとしただけです。医療を学ぶ者として、患者の症状に関心を持つのは当然でしょう」「本人が拒んでいる。それだけで十分だ」「病気で不安定になっている者の言葉を、すべて正しいと判断するのですか?」 ミナの肩が小さく揺れた。 俺の胸の奥で怒りが熱を持つ。病気を理由に、ミナの意思まで曖昧なものとして扱う。その言葉だけは聞き流せなかった。 だが、口を開く
「本当に行くつもりなのか?」 テオの声が、朝の獅子寮談話室に落ちた。 長い窓から差し込む光はまだ淡く、磨かれた床の上をゆっくりと伸びていた。暖炉には昨夜の火の名残がわずかに赤く残り、焼きたてのパンと紅茶、古い木製家具の匂いが混ざっている。 いつもなら心を落ち着かせてくれる朝の匂いだった。 けれど、今の俺には、目の前の光景すらまともに見えていなかった。 窓も机も椅子も、輪郭が水に溶けたように揺らいでいる。正面に立っているテオの顔も、髪の色と制服の形でかろうじて見分けられるだけだ。視界の端には白い靄がかかり、ときおり光の粒がちらついた。「行くよ」 俺はそう答え、制服の袖口へ手を伸ばした。 小さなボタンを留めようとしても、指先に力が入らない。震える親指と人差し指の間から、ボタンが何度も逃げていく。三度目に爪が布をかすったところで、とうとう手を下ろした。 ただそれだけの動作で、呼吸が乱れていた。 胸の奥へ冷たい布を詰め込まれたように、深く息を吸えない。浅い呼吸を何度も繰り返しているうちに、首筋へ汗が浮かんだ。「無理だろ、それ」 テオは俺の前まで来ると、顔をのぞき込んだ。「顔色、朝の壁より白いぞ。今日は休め。講義の内容なら俺が聞いてくる」「お前、昨日の講義で半分寝てただろ」「あれは目を閉じて集中してたんだ」「寝てたわよ」 ソファの向かい側で、エマが冷静に言った。 彼女は湯気の立つカップを机へ置き、俺のそばまで来た。ひんやりした指が手首へ触れる。視界がぼやけていても、彼女の表情が険しくなったことは、わずかに止まった呼吸でわかった。「ハヤト、手を握ってみて」 言われたとおりに指を曲げる。 けれど、エマの手を包むどころか、指先が掌へ触れる前に震え始めた。「昨日より悪くなってる」「まだ歩けるよ」「歩けるかどうかを聞いてるんじゃないわ。視界は?」「少し、ぼやけてる」「少し?」 エマの声が低くなった。 俺は答えず、窓の方を見た。外に木々があることはわかる。だが、枝も葉も一つの緑色の塊に見えた。「……テオの顔が、ほとんど見えない」「俺のこの整った顔が見えないなんて重症だな」「そこで冗談を言わないの」 エマに叱られ、テオは口を閉じた。それでも俺の肩へ置かれた手には、普段の気楽さとは違う強い力が込められていた。「部屋に戻ろう、ハ
「講義を抜けるったって、どうやって抜けるんだよ」 俺が声を潜めると、テオは待っていましたとばかりに身を乗り出した。 講義前の獅子寮の談話室は、いつになく騒がしい。長机を囲んで課題を見せ合う声に、教本の紙をめくる音が重なっている。大きな窓から差し込む朝の光が、使い込まれた木製家具の表面を柔らかく照らしていた。温かい茶と焼いたパン、それに古い木の匂いが混ざり合っている。「俺がハヤトに変装して講義受けるぜ!」 胸を張ったテオの宣言に、俺は言葉を失った。 向かいに座るエマは、持ち上げかけたカップを静かに置いた。「いつも通り斜め上ね」「待て。見た目も声も違うだろ」「髪の色は近い。背丈もほとんど同じ。制服を同じように着れば、後ろから見ただけじゃ分からないって」「講義は後ろ姿だけで受けるものじゃない」「もっと現実を見なさい、テオ」 俺とエマから同時に否定されても、テオは少しもひるまなかった。「でも、ミナの様子が心配なんだろ? 面会時間まで待ってたら、今日の講義が全部終わっちまう。ハヤトの顔に、俺は今すぐ行きたいですって書いてあるぜ」 思わず頬へ手を当てそうになり、途中で止めた。そんなものが本当に書いてあるはずはない。それでも、否定の言葉は出てこなかった。 エマが俺を見つめる。厳しさの奥に、わずかな気遣いを含んだ目だった。「昨日、あなたの力でミナの光の病の進行は遅くなった。でも、完治したわけではないわ」「ああ。分かってる」「さらに治療を進めるには、あなたが医療戦士の力を安定させる必要がある。それに、光の病そのものについても研究を重ねないといけない。焦って力を使えば、何が起こるか分からないのよ」 冷静な言葉が胸に刺さる。正しいからこそ、反論できなかった。「それでも、顔を見ておきたいんだ」 自分でも驚くほど低い声が出た。「昨日より苦しくなっていないか。熱は下がったのか。ちゃんと眠れたのか。それだけ確かめたら戻る」「そう言って、あなたは放っておけなくなるでしょうね」 エマは小さく息を吐いた。けれど、拒むように教本を閉じるのではなく、膝の上から一冊のノートを取り上げた。「仕方ないわね。今回だけよ」「さすがエマ!」「喜ぶのは早いわ。テオ、あなたが解剖学の講義で指名されたら、この計画はそこで終わりだから」「俺の知識を甘く見るなよ。骨はだい
写真を制服の内ポケットへしまうと、俺は獅子寮の談話室を飛び出した。 重い扉が閉じる音を背中に聞いた瞬間、足が勝手に速くなる。 午後の授業を終えた学生たちが行き交う廊下を、テオとエマが追ってきた。開いたままの教本を抱えて歩く者、実習で使った薬草籠を提げた者、寮対抗戦の話で盛り上がっている者。いつもなら耳に入るはずの声が、今日は厚いガラス越しに聞いているように遠かった。 頭の中には、医療棟のことしかない。 あそこに、ミナがいるかもしれない。 その可能性に追いつこうとするように、俺の足はさらに速くなった。「ハヤト、教本!」 テオの声と同時に、脇へ挟んでいた教本が滑り落ちた。 床へぶつかる寸前で、テオが片手を伸ばして受け止める。勢いよく屈んだせいで、彼が抱えていた自分の教本まで傾いた。「あ……悪い」「いいって。今のハヤトに持たせたら、医療棟へ着くまでに全部落としそうだし」「自分で持てる」 手を伸ばしたが、テオは教本を返さなかった。「持てるのと、ちゃんと持っていられるのは別だろ」 いつもなら言い返していたかもしれない。だが今は、その時間さえ惜しかった。 俺が再び歩き出すと、エマが隣へ並んだ。彼女の歩調は落ち着いていたが、決して遅くはない。俺が走り出さないぎりぎりの速さに合わせている。「ハヤト。一度、呼吸を整えて」「平気だ」「平気な人は、そんなふうに肩で息をしないわ」 言われて初めて、胸が苦しいほど上下していることに気づいた。 まだ医療棟へ着いてもいない。階段を駆け上がったわけでもない。それなのに、細い紐で喉を締められたように息が通らなかった。 ミナに会えるかもしれないという期待。 もう手遅れかもしれないという恐怖。 二つの感情が胸の中でぶつかり合い、心臓を両側から握り潰そうとしている。「落ち着いている時間なんてない」「急ぐことと、何も見えなくなることは違うわ」 エマは俺を止めなかった。「医療棟へ入ったら、あなたが話をしなくてはいけない場面もある。今のままでは、自分の名前を伝えるだけでも息が切れるわ」 俺は唇を噛み、鼻から深く息を吸った。 胸の奥まで届かない。それでも、二度、三度と繰り返すうちに、喉を塞いでいたものが少しだけ緩んだ。「昨日まで何も分からなかったんだ」 歩きながら、俺は呟いた。「探しても、手紙を送っ
授業を終えた俺は、獅子寮の郵便受けに届いていた一通の封筒を手に、談話室へ戻った。 窓から差し込む夕方の光が、長机の上に積まれた教本を淡い金色に染めている。使い始めてまだ数日しか経っていない本の背には、もう何度も開いた跡がついていた。慣れない授業に疲れた学生たちは、椅子に深く腰かけたり、温かい飲み物を片手に今日の課題について話したりしている。 紙とインクの匂いに、誰かが淹れた薬草茶の香りが混じっていた。 けれど、俺は談話室の空気をほとんど感じていなかった。 目は、手の中の封筒に引きつけられていた。 俺の名前が、間違いなく書かれている。 寮の郵便受けを開けた瞬間から、胸の奥で鼓動が速くなっていた。今まで一度も手紙をくれなかった相手の顔が、なぜか真っ先に浮かんだ。「ミナ……?」 声にした途端、期待が急に形を持った。 俺の居場所を知って、連絡をくれたのかもしれない。何も言わずにいなくなったことを謝る手紙かもしれない。あるいは、たった一言だけでも、元気だと知らせてくれたのかもしれない。 返事をどう書こう。 そんなことまで考えながら封筒を裏返し、俺は息を止めた。 差出人の欄に書かれていたのは、ミナの名前ではなかった。 ミナを引き取った里親の名前だった。 胸の高鳴りが、別のものへ変わる。「どうした、ハヤト。郵便受けの前からずっと、その手紙とにらめっこしてるけど」 長椅子に座っていたテオが、開いていた教本から顔を上げた。その向かいでは、エマが小さな紙片に授業の要点を書き出している。 俺は二人のいる長机まで歩き、空いている椅子を引いた。「ミナの里親からだ」 テオの表情から、疲れを隠すような笑みが消えた。 エマもペンを止める。「以前、話していた女の子ね」「ああ」 封筒の端に指をかけたものの、すぐには開けられなかった。 もし、中に望んでいない知らせが入っていたら。 その考えが頭をよぎる。けれど、開けずにいれば何も知ることができない。俺は浅く息を吸い、紙を傷つけないように封を切った。 便箋を探して指を差し入れる。 触れたのは、厚みのある一枚の紙だけだった。「写真……?」 取り出したものを見て、テオが身を乗り出す。 手紙はなかった。 説明も、短い伝言さえも入っていない。 写真に写っていたのは、白い壁と淡い青色の窓が並ぶ大きな建







